履歴

1946年(昭和21年)終戦半年後の2月11日、母方の実家、東京都中野区で生まれる。当初ミルクが足りず泣き叫んでいた様だが、闇ミルクを飲み、大きくなり過ぎた様である。

父の転勤で神奈川県横須賀市と群馬県高崎市で幼少時代を過ごす。戦後の雑踏、異文化アメリカ、湘南の海、そして上州の野山や川の生態に触れる。また小さい時から絵を描いたり積み木をするのが食事より好きな子供であった。

中学入学時に東京都中野区に引越し成人を向かえ、16年後再び湘南の海岸沿いに引越した。

東京都立富士高校1年でのちに結婚する「結城慧里」と出会う。互いにひと目惚れとか。

一浪の後、武蔵野美術大学造形学部建築学科に入学、高校時代までとは異なり、苦手な科目は不要、好きな分野に専念でき、熱中の日々。眼や顔の表情が変わったとか。

在学中、趣味思想の一致が「慧里」との仲を深め同居、長女「夕帆」が生まれ入籍。学問と生活の中、看板屋のアルバイト先での事故で足骨折、松葉杖、「おしめ交換」、卒業制作の日々に暮れる。根本の卒業制作は「娘」との説も。(3年後に次女「麻潮」誕生)


1968年(昭和40年)大学卒業と共に造形趣向が近いと思われる「海老原建築設計事務所」にジーパン、サンダル履き、学生課題の図面を肩に担いで訪問、面接、入社。

22年間の在職最後の7〜8年間には得意先の大日本インキ化学の総合研究所と川村記念美術館の設計を任された。最晩年84歳で病床の海老原には特に遺作ともなった美術館の打合せを通し、美への追求、建築への情熱を学んだ。1990年(平成2年)美術館オープニングの5日後、海老原はその息を引き取った。後、この美術館は「建築業協会賞(BCS賞)」「日本インテリアファブリックス協会奨励賞」「国際照明デザイン・エドウィン・F・グース・メリット賞」等々を受賞した。

一年間の残務整理の後、設計事務所は「個人一代のみ」と言う彼の遺言通り事務所は解散となり、1991年(平成3年)大日本インキ化学を共に担当していた仲間達と(株)建築設計ベイシス・アソシエイツを設立、取締役に任じ、同時に私的な設計活動をする(株)建築アトリエ「老有自」も設立した。

2003年(平成15年)8月、入居ビル売却・解体による引越しを機に「老有自」が大日本インキ化学も担当、社名を(株)建築設計「老有自」と変更する。



趣味
芸術鑑賞 特に美術館、たまに音楽会、その他のイベント
読書 分野を問わず何でも興味津々で、溜まった本は2千冊以上?置き場に困っちゃってます。
絵を描く 最近は暇がありませんが、その内また始めたいな。もうひとつ、木彫もやりたいです・・・
映画鑑賞 若い頃は「映画監督になりたかった」のです。ビデオを含め今でも良く見ます。月平均4〜5本。映画はその時代の最先端ものを知る事が出来るのです。今までで一番好きな映画は「素晴らしき哉人生」です。
カラオケ 要は歌うのが大好きなのです。ストレスが発散できるし・・・
全てのスポーツ 学生時代は190cmの長身を生かしてバスケとバレーでした。今はテニス。やり過ぎで身体のあちこちが痛んで最近休んでます。また何か身体に良い事やらねば・・・
サイクリング テニス代わりに湘南海岸沿いに・・・ママチャリで・・・
自然鑑賞体験 最低年3回は出掛けます。特に長野方面・・・姉の嫁ぎ先・・・
日本と世界の建築を訪ねる これをやらないと仕事に元気が出ません。まだまだ行き足りません。